いのちの視点で暮らすということ

馬場利子 - いのち
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2006年5月25日

馬場利子

ぐるーぷ・みるめの総会に寄せて

1991年に 食べ物に関心を持つ人(7~8人)が集まってスタートした共同購入ですが、あれから15年。
近日は 行政も『食育』に多くの予算や政策をあげるようになっています。
私がなぜ、『食』に関心を持ち、『食の場』に感謝し喜びを感じているのかといえば、それは『健やかな命(体と心)』の基本になる不可欠なものだからです。

 

食べ物(環境から否応なく摂取してしまう化学物質や環境の汚染も含めて)が生き物の健康に及ぼす影響はこの20年の間に顕著に理解されるようになってきました。
 少し知識を持てば、その汚染のリスクを減らす事は実に容易です。
しかし、いのちの視点で暮らすことに無関心でいれば今、何が起こっているのかを感じる事は難しくなります。


 私たちの体と心(脳)は環境の物質を取り入れ、代謝し、命を繋いでします。
 水や空気、食べ物・・全ては環境から得る命の糧です。
だからこそ、私たちは私たち1人1人の暮らしが命の鎖を傷つける事のないように、『生ごみ』を土に還したり、小さな紙に至るまで燃やす事のないように、自分たちで動いて小さな行動としています。

・・・こんな小さな活動は無意味でしょうか?
私たちはまた小さな願いを繋いで、集いや署名、呼びかけをしています。・・そんな事は何の役にも立たない事でしょうか?

 

いのちの視点で暮らす・・とはどんな事を言うのでしょう?

 

いのちとは、小さい大きいではありません。

 

小さな願いが無意味だとするなら、もっと言えば力を持たないいのち(植物や重度の障害を持つ人々)は何の意味もない事になります。
命の視点で暮らすということは、全てがその存在のまま、その輝きを生きるということではないでしょうか・・・。

 

子どもの命を社会の視点で比べる事は、子どもを規格品(物)として扱うのと同じ事で

「私が何をしても変わらない」・・と自分を社会と比較する事も力(幻)の基準です。
「私」の願いや意見は直ぐに社会を変える事は出来ないかもしれません。でも、『私』は私を表す事が命の視点で暮らすことだと思います。
『私』の願いを表すその1つが、食べ物を選ぶ事でもありますし、家族に病の人があれば寄り添い、支える事も『いのちの視点で暮らす』事に他なりません。

 

人と自分を比べたり、社会の中で自分は力の無い者だと自分で決めてしまったり・・・

もし大人がそんな風に生きているとすれば、子どもたちは、とても息苦しくなってしまいます。
だって、力があり、誰にも負けない子など何処にも居ないのですから・・・。

 

「小さな願いを生きれば、感謝して食べられる『食べ物』に出合え、私たちのいのちを活かしてくれる」

「地球上の何億分の1の二酸化炭素を減らす事のできるトレペって嬉しいよね」

そんな話をしながら仲間や家族と一緒に育つ事の出来る暮らしに心から感謝をしています。

最終更新 2011年 8月 20日(土曜日) 17:18