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いのち

プルサーマルって何でしょう?

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2005年9月20日号 発信者 馬場利子

過日2005年9月13日「浜岡原子力発電所において、2010年よりプルサーマルを始める」ことが中部電力から県~報告されました。

 

≪プルサーマル計画とは…?≫
 原子炉でウランを燃やした時に出来てしまうプルトニウムを何とか利用しようとした高速増殖炉は世界中で「実用化できないぎじゅつだから」と中止しました。日本ではもんじゅ」が作られました。
(プルトニウムは100万分の1gの微粒子を吸い込んだだけで肺がんを誘発する超猛毒物質です)

 核廃棄物が処理できないまま日本中にあふれてしまわないように再利用する事がどうしても必要なのですが、「もんじゅ」は事故で止まったままです。
(再利用できなければ、原子力発電所を止めなければならないため、続けるために必要なのです。)そのため、プルトニウムウランと混ぜて普通の原子力発電で燃料として使おう…と言うのがプルサーマル計画です。

 

≪プルサーマルは安全な技術ですか…?≫
浜岡原発4号炉もウランを燃やす為に設計されたものです。勝手にプルトニウムを混ぜても大丈夫…だとは物理学者も言っていません。その理由は

  1. プルトニウムはウランよりも燃え易い。
  2. 中性子の割合が違うので、制御しにくい

ゆえに…核暴走が制御しにくい(*1資料より引用)

 

≪東海地震の震源域にこれ以上放射性物質は要りません≫
 私たちが創り出してしまったものはもう消せません。しかし創り出さないようにする事は出来ます。 反対する人の少ない静岡(県知事さんも)なら大丈夫と思われても地震は了承してはくれません。


 

 

【浜松放射能測定室】で一緒に活動をしていた人からのメッセージ

原発については地球上のすべての生き物にとって危険であるので、全廃を求め、自然エネルギー利用の拡大、そのための援助および開発、公的機関の利用義務化、省エネ社会構造の構築(LRT、都市交通の見直し)が必要、との立場から今回のプルサーマル計画についても、私は賛成する事が出来ません。

 他の大型プラントとの危険の違いは、燃料の構造から運搬、発電所の運転、使用済み燃料の移動、再処理(イギリスーウインズケール、フランスーラ・アーグ、日本ー六ヶ所村)最終処分の全ての行程で汚染・被曝があり、その影響が半永久的であるということです。プルサーマル燃料運転も同様です。

 蛇足ですが、日本は、原発により発生するプルトニウム239を90㌧在庫していると言われています。長崎型原爆(5kgのプルトニウム)の18000個分に相当しており、その毒性は「1gで1万人の致死量」だそうで、90×1000×1000×10000人の致死量となります。
私たちは想像する事も難しいプルトニウムを抱えてしまったということです。原発を運転すればするほど、Pu239は作られていきます。

 また日本世界でのプルサーマル運転は、原子力資料情報室のブックレット「プルサーマルの正体」によれば「1960年代や70年代に実施してみて、現在も続けている国は1つもありません」(19㌻)と述べられており、中部電力の述べている「(参考1)プルサーマルの実績」は正しく記述されたものではないと思われます。

なお webで*1『プルサーマル導入ーその狙いと危険性』 について、詳しく知る事が出来ます。

2005年9月15日記 引佐町 渡辺春夫

*1この資料はプラムフィールドでも入手できます。


【メッセージ】

 みなさん、お変わりなくお過ごしでしょうか?
みなさんが当然、充分に知っていらっしゃる事を改めてお便りしています。
 来年2006年4月26日はチェルノブイリ原発事故から20年になります。

 今、私たちの住む静岡では
巨大な地震がいつ起きても不思議ではない時期に来ているとされ、
1日1日、平和で安全である暮らしがどんなに幸せで大切であるかを感じています。

 自然の災害は人知で止められません。
巨大地震が予知された場合、新幹線もエレベーターも止まります。
原子力発電所も運転を止めると思います。
しかし…原子炉は今止めたとしても、車のようにすぐに止まる事が出来ません。

安全に運転されていたとしても
放射能は大気へ、海へ、放出され続けている原子力発電所。
その使用済み核燃料プルトニウムは2万4000年経っても
冷やしつづけねければならない核のゴミです。

ただ電気を作るためだけならば、今すぐ原発を止めて自然エネルギーに!
願いが明日を創ります。
諦めないでノーを!!

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最終更新 2011年 8月 21日(日曜日) 07:07
 

勝ち負けより大切なこと

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2003年4月1日

馬場利子

 

東海大地震はいつ起こってもおかしくない、その前に浜岡原発を止めようと、中部電力を相手に浜岡裁判が始まってちょうど一年になります。
原告1780人という前代未聞の展開で、新たな時代への道すじを見せてくれそうなこの裁判。
一市民、一主婦の立場で事務局長を引き受けた馬場利子さんに裁判への思いをうかがいました。

 

ヨウ素剤を配るよりもっとできることがあるはず
 東海地方で大地震が起こると言われてもう25年くらいになります。静岡県の浜岡町にはだいぶ老朽化した原発があって、地震が来るとわかっている場所でそんな原発が動いているというのはどう考えても危険だという声がずっと前からありました。
ただ私は根が楽天的で、自分の中ではあまり切迫感がなかったんです。けれど数年前から静岡県の防災対策がすごく徹底して綿密なものになってきて、それで私たちの共同購入運グループでも、何ができるか、どうしたら子供たちを護れるのかということを相談してヨウ素剤の頒布を始めました。

原発から放射能が漏れた時、そこに含まれる放射性ヨウ素が体に入ると甲状腺ガンを引き起こすといわれていますが、被爆する前にヨウ素剤を飲めばかなり防げるのです。
350人分、説明をしながら配りました。でもこれを飲む時は本当に最悪の事態になった時ですから、実は自分の子には渡す勇気がなかなか出なかったんです。
けれどもおととしの11月に浜岡の1号炉の放射能漏れ事故が報じられ、大きな配管が吹き飛んでいるのをテレビで見て、あれだけ老朽化していたなら、小さな地震でも耐えられないだろうなと実感しました。

それでようやく息子たちに手渡したんですが、その時、子供たちの戸惑った顔を見て、私は何でこんなことをしているのか、大人としての責任はヨウ素剤を渡すことよりもっと他にあるはずだと強く思ったのです。


 年が明けて静岡で、浜岡原発を止めたいと願う人たちが30人あまり集まった時、東京の弁護士さんたちから裁判をしようという声が出ているという報告がありました。
原発の是非や安全を問う裁判は難しいけれど、地震が理由なら勝つ見込みがあるかもしれないと聞いて、「裁判だったらやりましょう」と私は1人で声をあげちゃったんです。
裁判は時間もお金もかかるし今まで勝った試しがないという声が多かったんですが、私は相手が同じテーブルについてくれる場があるのなら、まず自分たちの意見をきちんと聞いてもらいたいと心から思ったのです。


 私は小さい時から話し合う過程が好きでした。違う意見を聞かないと自分が正しいと思ってしまうけれど、もしかしたらお互いの意見を聞きあっているうちに第3の意見が生まれてくるかもしれない、そんな過程が好きで、裁判も勝ち負けではなくて、それをしている間になんかもっと方向性が見えてくるんじゃないかと…今もそう思っています。

 

ふつうのお母さんたちの思いと専門家がつながった裁判
 昨年2月に「浜岡原発とめよう裁判の会」が発足して、全国に向けて原告の募集を始め、4月25日に原告団1015人で第一次提訴となりました。
その後も原告に加わってくださる方たちは増え続け、今年3月現在で1780人になっています。


 私はこれまで20年近く、生活の場、地域の場で一般の若いお母さんたちとつながりを持ってきたんですが、自分から活動に加わってと呼びかけたことはあまりないんです。
でも、今回この裁判についてあちこちに書かせていただいたものを読んだ方がコピーして地域で配ってくださったり、一人のお母さんが保育園に呼びかけて、その保育園の多くの方が原告になってくださったりしました。
自分が今子供たちにしてあげられるのは何だろうと考えた時に、地震は止められないけれど原発は止められるかもしれないという思いをたくさんの方たちが持ったのです。


 この裁判を一緒にやっている方たちの中には組合活動を長年やってきて素晴らしい行動力を持っている方たちがいるんですが、私はみんなに説明しないと前に進めなくて、私の運営のしかたはすごく面倒くさいとよく言われました。
でも「今まで運動にいなかったような人たちともいっしょにやっていきたいというのが皆さんの希望ですよね。
原発のことをやってきた人たちとだけやりたいですか?」と脅したりしながら(笑)、やっています。
どのくらいのスピードなら、みんなが落ちこぼれないか。
これくらいだったらできるというリズムに合わせて活動するというのが、今回の原告の数につながると思うんです。
効率は悪いけれどそれもいいかなということが、だんだんわかってもらえるようになってきました。


 それから私は事務局長として全体を眺めることはできますが、原発の専門的な知識はほとんどありません。
でも、原告団の中には地震の専門家、原子炉の構造の専門家、または各地の原発裁判のことを良く知っていらっしゃる方など市民ブレーンみたいな方たちがたくさんいて、静岡だけではなく遠い所からもみんなが力を出し合ってくださっています。


 裁判では各界の専門家の証言やデータの解析などを書面にしたうえに、裁判長の要請で証言ビデオを製作することになりました。
膨大な労力とお金がかかったんですけれど、そういうことの積み重ねを日々見ていると、この裁判は30年も前から原発をなくそうと願ってきた方たちの活動の上にしか成り立たなかったのだということを本当にありがたく感じます。
今までこんなに活動があったのになぜ原発が止らなかったのかと言われる方がいるんですけれど、どの活動も何一つ無駄になっていないんです。
みんな次の歴史を作るための力や知恵や情報を出してきて、目に見えないネットワークみたいなものができあがっている。
そういう方たちが素人の私たちの気持ちといっしょに歩いているんだということを多くの人に伝える仕事をするには、やはり私自身が素人でよかったと思っています。

 

原発がなくても暮らせることを電力会社自らが証明した
 裁判が始まってもうすぐ1年ですが、原発そのものも激動の一年でしたね。
昨年の8月に東電のトラブル隠しが発覚しましたし、浜岡原発も実は検査報告漏れや傷があったとわかって、9月20日に浜岡のすべての原子炉が止りました。
今年の1月には2号炉が再開されましたけれど、その間全然「節電せよ」とは言われませんでしたし、停電になることもなかったんです。


私たちがずっと原発はなくても電気は足りているんだと言ってきたことを中部電力が自ら証明してくれたような結果になりました。
もちろん火力発電ならいいのかという問題ではなくて、ここ十何年私たちは節電の努力をしています。
でも原発がなくても暮らせるんだという実感をみんなで分かち合えたのは本当にうれしいことでした。


 それで、だったらもう原発を動かさないで、そこいら中でソーラーパネルだの風車だの自然エネルギーによる発電ができたらいいねと仲間と話したんです。
たとえば私たちが100円でも1000円でもお金を出し合ったら、小学校にソーラーパネルを寄付することができる。
そうしたら子供たちは太陽が出てきたら電気ができるということを学べるんです。
「市民エネルギーギフト」という名前が先に出てきて、みんなの応援で今年2月に立ち上がりました。
自分が250万円出して「私のところは自然エネルギーです」と言うより、みんなでエネルギーを未来にギフトするほうがずっと楽しいし、夢があります。
言葉を尽くすだけじゃなくて、思いが形になると言うことも必要なんです。

 

勝ち負けから一歩進んで第3の道を探る
 この裁判は国を相手取っているわけではないので、中部電力は原発を止めるとなれば当然損害が出るでしょう。
私はそれをみんなで…国や県、市町村、市民みんなで負担できないだろうかと、そしてもしも中部電力が原発以外の自然エネルギーで発電するプラントを造ってくれるのであれば、私たちは未来債として市民も企業もそれを買って、一緒に電気を作れるのではないかと一回目の意見陳述の中で言いました。


仲間の女性たちともずっとこのことを話し合ってきたのです。
停めるか停めないかの選択から一歩進んで、第3の方法をみんなで考えたいというのが、この裁判に関わった私の一番の願いなのです。


 裁判は勝たなければダメだと思えば、負けたら裁判は無駄だったということになるかもしれません。
でも、司法がただ人を裁いたり、損害をお金に換算するだけだとしたら、それは自ら司法の理念や可能性を否定してしまうことになります。
司法も人が幸せになるために使われなければ何にもなりません。
子供たちの未来のためにも原発はやめたいというみんなの願いを受け止めて、それをどうしたら実現できるか、そのための方法を話し合って考えていくことで時代を新しい形に変えていく、その道順をこの裁判はつけることができるのではないかと、私は思っています。

月間湧2003’4より
最終更新 2011年 8月 20日(土曜日) 13:37
 

ようこそ“プラムフィールド”へ・・・

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1999年5月7日

馬場利子

皆さん、プラムフィールドってご存知ですか?
 幼い頃から読書が大好きだった私が最も愛した本の1つにオルコットの「若草物語」があります。美しい4姉妹の物語の物語を皆さんも一度は読まれたことでしょう。
 その次女ジョーが作家を目指し、ローリーの求愛を後に旅立った、その後について書かれた物語に私が出会ったのは、成長し高校生となった時でした。
「プラムフィールドの子供たち」「プラムフィールドの青春」
自分自身の人生に向けるジョーのまなざし、それは全く同じように周りの人にもやさしく愛情深いものでした。

・・・大人になったら、こんな風に生きたい。
          こんな風にあらゆる子供たちと接したい・・・。

プラムフィールドに集う人々の豊かな愛・・・。私の30年の夢でした。
30年間、私のまだ見ぬプラムフィールドから吹いてくる風を胸に過ごした私にとって、このスペースが  ~皆さんと共有する“夢”と“暮らし”“愛”のプラムフィールド~  になったらいいな・・・と思っています。静かだけれど決して受身でない女性たち・・・。そんなプラムフィールドの女性たちは、子供たちからも男性からも慈しまれ、人生を花開かせてゆきます。
どうぞ、御いっしょにプラムフィールドの風に遊んでください。

プラムフィールド通信・第1回巻頭エッセイより
最終更新 2011年 8月 20日(土曜日) 13:27
 


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