プラムフィールド

健やかな命とくらしを実現するスペース・・・

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いのち

静岡の地震を案じていただき、本当にありがとうございました

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2009年8月11日
スタッフ一同

今日、8月11日未明に起きました駿河湾沖の地震で、静岡市葵区の被害状況が報道されましたため、各地から多くのお見舞い、お問い合わせの電話やメールを頂きました。

ご心配をありがとうございました。

プラムフィールドは8月1日より、例年通りの長い夏休みを頂いていますので、店内の被害を心配して、行って見ましたが、唯一1本、もろみ酢が破損していただけでした。

プラムフィールド店内には、食品や衣類、書籍などが所狭しと並んでいますので、特に瓶入りの食品の被害を案じましたが、その他の商品は、夜中に遊ぶために棚から踊りだし、
朝が来てしまって床に寝そべっているような有様でしたが、何だか楽しそうにも見えました。

地震の揺れは、被害の小ささに比べて、驚くように大きかったように感じました。
スタッフの各家でも、本が散乱したり、台所の食器が床に広がったりしてはいましたが、
皆、怪我も無く、元気にしています。

今回は、予想される東海地震とは違っているようですが、浜岡原発の安全を案じてお問い合わせをくださった方も、複数ありました。

地震発生から約1時間は、浜岡原発について報道される事はありませんでしたので、6時半頃、県庁の原子力防災課に電話で問い合わせをし、「今のところ、モニタリングポストで放射能漏れの数値は出ていません」という返事を貰い、やや安堵をして、日常に戻る事ができました。

遠く、九州や北海道からも静岡の地震を案じていただき、本当にありがたく思いました。

 プラムフィールドは8月23日まで夏休みを頂きますが、今回のご声援に感謝して、また8月24日から、元気に「場」を開いていきますので、よろしくお願いします。

まだまだ、天候不順は続くようです。
皆様もお体大切に、お元気でお過ごし下さい。
ありがとうございました。

最終更新 2011年 8月 20日(土曜日) 18:31
 

10周年のお祝いの花に寄せて

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2009年5月15日
馬場利子

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5月に入って、いつもにも増して多くに方が来店して下さるようになりました。
 プラムフィールドがオープンして10年になったことは、
特に宣伝できる方法もない私たちですが、
 毎月発行している通信を読んでいてくださる方が
 “おめでとうございます”と お声を掛けてくださったり、
  “ここを開いていて下さって、ありがとうございます”と言っていただいたり、
 私たちスタッフにとっては、日常の中の小さな活動でしたが、
 続けてこられた事は、やはり、来店して下さる皆さんのお陰だったと改めて感じています。

そして、遠くの町で “健やかな命を未来へ~”と願い、
活動をしていて下さる(有)エムディさんからも、
思いがけないお祝いをいただきました。
多くの人に見守られてプラムフィールドが在る事に感謝しながら、
また1歩を歩みたいと思います。
よろしくお願いします。

最終更新 2011年 8月 20日(土曜日) 18:27
 

OPEN10周年記念号

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2009年5月1日
プラムフィールド通信・第102回巻頭エッセイより
馬場利子

 

プラムフィールドは1999年5月7日、上沓谷のお店から6人のメンバーで出発しました。
運営メンバー6人の内、5人は共同購入“ぐるーぷ・みるめ”で一緒に活動を続けてきた人でしたが、もう1人は、自分でお店を持ち、住まいも駅南・・・と他のメンバーとは少し違う生活時間でありながら、“健やかな命と暮らしを提案する”活動テーマに賛同して、参加して下さいました。
想いがつながったからだと思います。

プラムフィールドは静岡市で初の市民リサイクルショックであり、環境スペースだったと思います。
まだ、ごみ減量やCO2削減ということもまったく言われていない頃でした。

物を大切に、まだ使えるものを、有効に使ってもらえる人に橋渡しするリユースショップを開きたい・・・と思ったのは1990年私が静岡に転勤してきたすぐの頃です。
それまで住んでいた浜松市では市民リサイクルショップが運営されていて、私も利用させてもらっていたのですが、静岡には、そうした活動がなかったからでした。

いつか“安全な食べ物や暮らしの消費財を紹介したり、リユースやエコ活動を提案するスペースを開きたい・・・” 夢を持って以来、9年目にプラムフィールドは生まれました。

私にとって静岡は知人1人居ない未知の街でしたが“いつか地域で~したい”という願いを一つ一つ一緒に実現していける仲間に恵まれたことは、神様からの賜物に他ならないと思います。

プラムフィールドは新しいスタッフも増え、“リサイクルショップ”だけではなく、スタッフ1人1人の個性や夢がその時、その場のスペースを創り、訪れてくださる皆さんと一緒に 10年を織り上げることが出来ました。

スタッフ一同、心から感謝しています。
これからも1人1人の心に実った愛を社会に広げていきたいと思います。


 

 

プラムフィールド10周年に寄せて~余録~

 私たちの活動スペースの名まえを“リサイクルショップ”や“エコショップ”という名ではなく、 “プラムフィールド”と名づけたのは、集まって下さる多くの人によって自由に創られていく『場』として在るように願ってのことでした。

 人が生まれてきた子どもに命名する時、その子の命への願いを現すのと同じように、私たちも、この場が私たち自身のためだけの存在ではなく、関わってくださる人々によって、育てられ、支えられて何かになっていく”ことを一緒に楽しませてもらいたい、との想いで名づけました。

“プラムフィールド”とは M・オルコット(1833~1888年アメリカ) の小説 『若草物語』の第三部で、次女ジョーが夫ベア氏とともに開いた学園(後に大学となる)のあった場所の名前です。
『若草物語』の中で、小説家を夢見たオテンバな少女ジョーは、長い間、幼い私の憧れの女性像でした。
“プラムフィールド”にジョーが開いた学園では、ジョーの甥や姪だけでなく、孤児を引き取り、育ち合うのですが、そこには大人が教育するという風景はなく、子どもの現れに心を配り、一緒に感じ合おうとする大人たちが語られています。

“将来、あなたは何をしてもいい。あなたが幸せを感じられる人となるよう、私も力を尽くします”という言葉は小説には出てきませんが、私はいつか、そのような『場』を一緒に作ってくれる人々に巡り会えたら、きっと“プラムフィールド”を創りたいと思ってきました。

そして仲間が与えられ“プラムフィールド”は実現しました。
“プラムフィールド”はお店ではなく、
心を交わす『場』であり続けたいです。
心から10年に感謝します
最終更新 2011年 8月 20日(土曜日) 18:23
 

石川薫さんありがとう

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消費者リポート2008年9月号より転載

わせだより
 1989年から5期10年間もの間、役員選考委員会委員として日消連の運営上の問題にも渾身の力を注いでくださった石川薫さんが、この夏の7月18日に、がんのため亡くなられました。
享年60歳でした。
 三重県鳥羽の海辺で育った石川さんは、海と魚と海産物が大好きで、合成洗剤の使用によって海が汚染され始め、魚師から魚が少なくなったという話を聞いたり、入江の真珠養殖の母貝が死んだり良い卵を産む貝がなくなったりして養殖をやめていくのを知り、 73年頃には鳥羽SOS運動を立ち上げ、合成洗剤ボイコットを呼びかけていました。
 愛知の合成洗剤追放・石けん購入運動は、合洗追放西日本連絡会で石川さんたちのグループと運動をともにしていました。
東京の消費者グループがいち早く合成洗剤有害の情報を掴み伝えて、全国の消費者グループに稲妻が走り、合洗追放の運動が各地域で燃え上がった頃の話です。
 まだ20代の石川さんは、合成洗剤の有害性について三重大学にいた坂下栄さんを訪ね、マウスの背中の毛を剃り洗剤を塗る実験の説明を聞いたりしながら、鳥羽の人々の間を有害性を訴えて歩き回っていました。
何事にも、自分自身にも妥協を許さない人でしたから、日消連の運動についても辛口の意見を頂いておりました。
 早過ぎるお別れでした。安らかにお眠りください。(水原)


 

プラム通信2008年10月号より  馬場利子 記

 石川薫さんの他界を知ったのは8月2日(土)の日本消費者連盟の運営委員会(東京)
私はとても驚き、お連れ合いで知人の石川貞二さんにお詫びの手紙をすぐに書き送りました。
薫さんには20年何かにつけ教えを受け、励まされ、勇気をいただくだけでなく、ここ数年「とにかく雑事を離れて鳥羽の海を見に来なさいよ」と何回となく招待を受けていたのです…。
私が“いのちと暮らし”に関心を持ち、食べ物から歩み出した後に、石川貞二さんと坂下栄さんの合成洗剤の毒性実験を知り「科学的な生命のとらえ方」を知るきっかけなったのもかおるさんたちの活動の大きさと広がりのお陰でした。
石川ご夫妻とは親しい友人のつもりでいた私でしたが、薫さんの病気や他界、葬儀を知らなかった理由は「病気のことはできるだけ誰にも知らせないで」という薫さんの意志で「葬儀もしなかった」との事でした。
49日の9月6日まで、毎日「薫さん、ありがとう」と日記に記しました。

最終更新 2011年 8月 20日(土曜日) 18:08
 

喜びのうちに食べられる幸せを重ねて神様からの賜物を知る

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ぐるーぷ・みるめの総会に寄せて

 

2008年6月26日
馬場利子

みるめの活動をはじめて17年になりました。
食べ物を作ることに喜びを感じて作って下さる生産者(人)をみなさんに紹介し、一緒にそれを食べたい…という想いではじめた活動が、こんなに長く、ほとんど思いを変えることなく続けられたことを心から嬉しく思っています。
総会前に、みるめの1つの食材、牛乳(乳製品)のことで宝物を得たような驚きと感動に出会いました。そのお話をみなさんにお伝えしたいと思います。

ホクレン(よつ葉)の牛乳を受け取るまで 

 私たちは、北海道の酪農業者が共同して組織したホクレンから、よつ葉の乳製品を届けてもらっています。その経緯には、長い道程がありました。
1986年頃 私の恩師ともいえる故望月維治さん(神田精養軒創業者・元社長)のご縁で、ホクレンの理事長さんにご紹介いただいてホクレン(よつ葉)の酪農について知ってはいましたが、当時、私が住んでいた浜松には、まだ周辺に乳牛を飼う酪農家が何軒もあり、いくら理想的に作られた牛乳であっても、遠く北海道から牛乳を運ぶことは“食べかた”に反しているという思いから、地場の牛乳を探すことから始めました。

どんな牛乳がのみたいか…

  私の気持ちは唯一つ、『大切に育てられ、牛も幸せに過ごしている母牛のお乳を分けてもらいたい』ということでした。
当時、訪ねた酪農家3軒は、どこも牛は牛舎につないだまま。牛はどこにも行けず、エサを食べて乳を出すだけ。牛舎は遠くからも独特の強い臭いを放っていて、飼料は60㎏の飼料袋が雨ざらしのところもありました。
“この牛乳を飲んでも、私たちは健康には過ごせないだろう”と、それ以後1年近く、牛乳を買うこともしませんでした。幸いその後、浜松でも、静岡でも、近郊で心をかけて育てられた牛から牛乳を分けてもらうことができていますが、ホクレン(よつ葉)の乳製品を取り扱いたい…と動いたのは、多国間協議によって、乳製品の輸入が自由化され、安いヨーロッパの乳製品が多量に日本に入ってくると決まった時でした。
チェルノブイリ原発事故後、ヨーロッパの乳製品や菓子、チョコレートなどに放射性物質(セシウム137)が事故の影響で検出されていることを私は知っていましたし、自分たちで輸入食品を測定もしていましたから、“なぜ、今、輸入が自由化され、日本国内の小規模酪農家を圧迫するような政策がとられるのか”と二重の不安を感じたためです。

北海道は遠い、しかし国内酪農家を支えたい…

  もちろん、日本中の消費者団体が輸入の自由化に反対したことはいうまでもありませんでした。
しかし国は“各国協調”を理由に「安い乳製品は国民にとっても、利益である」としたのです。
“静岡から北海道は遠いけれど、国内産の乳製品を紹介し、購入することで国内の酪農を支えることができたら…”と動き、企業でも団体でもない私個人の契約で、静岡に初めて、よつ葉の乳製品の共同購入がはじまりました。
そして、ホクレンの招きで北海道の生産者、生産地見学にも行かせてもらい、みるめのみなさんに報告したのは1992年だったと思います。今、みるめでは高橋牧場のビン牛乳を省資源、フードマイレージなど環境面でも安心で、味、価格の面でも「幸せな牛乳」を飲むことができていますが、よつ葉の1㍑の非遺伝子組み換え飼料によるノンホモ、低温殺菌牛乳も月1回届いています。みるめには、ビン牛乳があるためよつ葉の牛乳を購入する人はとても少ないのが現状ですが…。

私たちはすでに飲んでいた!!
03  2年前から、ホクレン・よつ葉では、共同購入グループの会員が年々減少していくことや商品作りについて、消費者と企業が一緒に考える「よつ葉共同購入事業推進会議」を開いて意見交換を続けていますが、(みるめも可能な限り参加させてもらっています)その分科会のメンバーが北海道の現地を訪ね、生産者の紹介をする報告が届きました。
遺伝子組み換えでない飼料100%、粗飼料を多く与えること、ノンホモ、パスチャライズ牛乳は、よつ葉の共同購入から生まれた牛乳で、一般には売られていません。

<その生産者は27軒>
◎自家製の牧草74%(この比率はとても高いです)農水省生産局賞受賞の大和牧場。
◎完全放牧にして、牧草を育て、飼料代が半分近くになったという高野牧場。
◎牛舎がなく、冬も放牧。子牛には代用乳を使わず母乳から飲ませて育てている井田義国牧場。 tak_pre_p_01など、その報告を読み進むうちにドキドキ、ワクワク、“すご~い!!”
“素敵!”と思わず声をあげそうになりました。そして最後の牧場名を見て私は本当に声をあげました!
「うそ?! 本当?! すごい!」斉藤晶牧場
交配も分娩も自然。牛が自力で荒地を牧場にしていったという「牛が拓く牧場」について、私は知人である地湧社の社長、増田さんから、熱く熱く、牧場の様子を聞いていた“その牧場”だったのです。
2001年私の稚拙な経験を本にと請って下さり、増田さんにはいろいろな事を教えていただいているのですが、斉藤牧場について伺ったのはその頃でした。
私が「牛は人のために自由に恋愛することもできず一生過ごすなんて悲しい」と話すと、「斉藤牧場は、自由恋愛、牛任せで妊娠率99%。母牛はおっぱいが張ると自分で搾ってもらいに広い牧場から集まってくるんだよ」と聞いていました。
“すばらしいなぁ、そんな幸せな牛のお乳を分けてもらえたら、私たちもどんなに幸せだろう…”
と思いながら、北海道に訪ねて行くことも、その牧場から分けてもらうことも、私には遠すぎる夢に思えて、日々に明け暮れていたのですが、なんと、その斉藤牧場は、よつ葉の私たちのところに届いている牛乳にお乳を提供してくださっている一軒だったのです!!夢はすでに叶っていたのです。気がつかないだけ、知らないだけで、願いは叶えられていたなんて、信じられない、本当に素晴らしい喜びでした。
牛も幸せに生き、私たちにいのちを与えていてくれる…「斉藤さん、この牛乳をよつ葉の牛乳にして下さった方たち、届けて下さるみなさん、ありがとうございます!」
私の信条である『夢は願い続け、行い続ければ、必ず叶う…』事を、再び確認する出来事でした。
私たちも、こうした自然の摂理に従って生きる生産者の方たちのように、この場所で心を紡いで何かを育てて生きたい、と…総会前に改めて思わせていただきました。
1_20050808_P1jpg tak_adr_img『牛も私たちも幸せな牛乳』を求めて訪ね歩いてから21年目の出来事でした。
神様、心ある人と出合わせて下さり、 ありがとうございます。

 

 

“斉藤牧場の牛乳について”お詫び

 

先日の総会にて「よつ葉のノンホモ牛乳」の生産についてみなさんにお話をさせていただき、資料として、6月26日のみるめ通信にも報告を入れた「斉藤晶さんの牧場」は実際は よつ葉 の生産者ではないことが分りました。

私が『よつ葉の生産者 見学の報告記』を読んで、早とちりをしてしまって、喜びのあまり、ホクレンに確認することもなく、皆さんにお伝えしてしまいました。

自由恋愛 100%牧草を食べ、子牛も母乳で育てる“幸せの牧場”は生産者訪問ではなく、「牧場の見学」だったそうです。誤報、すみませんでした。

私自身も 大感激してしまい、みなさんに牛乳の大宣伝をすることになってしまい、ご迷惑をかけて、申し訳ありませんでした。

私の誤報が分ったのは別件で、ホクレンと連絡をして くださった伊藤さんが「斉藤牧場の牛乳が届いていたのですね・・・。」と話して下さったお陰です。そうでなければ、ずっと そう思い込んで誤った情報を皆さんに伝えたままになってい たところでした。みるめもプラムフィールドも関わる人々の力に支えられて、修正し、補い合って歩んでいます。本当にありがたいことです。

ひとえに、私の粗忽さをお詫びし、お許しいただければ嬉しいです。

いつか、きっと ずべての牛たちが 斉藤牧場の牛たちの幸せに近づいていくことを願って。

2008年7月1日  馬場利子

 

最終更新 2011年 8月 20日(土曜日) 18:04
 


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