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2008'10/20
プラムフィールド通信・第1回巻頭エッセイ
ようこそ“プラムフィールド”へ・・・
皆さん、プラムフィールドってご存知ですか?
 幼い頃から読書が大好きだった私が最も愛した本の1つにオルコットの「若草物語」があります。 美しい4姉妹の物語の物語を皆さんも一度は読まれたことでしょう。
 その次女ジョーが作家を目指し、ローリーの求愛を後に旅立った、その後について書かれた物語に 私が出会ったのは、成長し高校生となった時でした。
「プラムフィールドの子供たち」「プラムフィールドの青春」
自分自身の人生に向けるジョーのまなざし、それは全く同じように周りの人にもやさしく愛情深いものでした。
・・・大人になったら、こんな風に生きたい。
          こんな風にあらゆる子供たちと接したい・・・。
プラムフィールドに集う人々の豊かな愛・・・。私の30年の夢でした。
30年間、私のまだ見ぬプラムフィールドから吹いてくる風を胸に過ごした私にとって、このスペースが   〜皆さんと共有する“夢”と“暮らし”“愛”のプラムフィールド〜  になったらいいな・・・と思っています。 静かだけれど決して受身でない女性たち・・・。そんなプラムフィールドの女性たちは、 子供たちからも男性からも慈しまれ、人生を花開かせてゆきます。
どうぞ、御いっしょにプラムフィールドの風に遊んでください。
プラムフィールド通信・第1回巻頭エッセイより




HOME > 馬場利子メッセージ > 暮らしのエッセイ > 勝ち負けより大切なこと
2008'10/8
浜岡原発裁判に関わって
“勝ち負けより大切なこと”
東海大地震はいつ起こってもおかしくない、その前に浜岡原発を止めようと、中部電力を相手に浜岡裁判が始まってちょうど一年になります。
原告1780人という前代未聞の展開で、新たな時代への道すじを見せてくれそうなこの裁判。
一市民、一主婦の立場で事務局長を引き受けた馬場利子さんに裁判への思いをうかがいました。

ヨウ素剤を配るよりもっとできることがあるはず
 東海地方で大地震が起こると言われてもう25年くらいになります。 静岡県の浜岡町にはだいぶ老朽化した原発があって、地震が来るとわかっている場所でそんな原発が動いているというのはどう考えても危険だという声がずっと前からありました。
ただ私は根が楽天的で、自分の中ではあまり切迫感がなかったんです。 けれど数年前から静岡県の防災対策がすごく徹底して綿密なものになってきて、それで私たちの共同購入運グループでも、何ができるか、どうしたら子供たちを護れるのかということを相談してヨウ素剤の頒布を始めました。
原発から放射能が漏れた時、そこに含まれる放射性ヨウ素が体に入ると甲状腺ガンを引き起こすといわれていますが、被爆する前にヨウ素剤を飲めばかなり防げるのです。
350人分、説明をしながら配りました。 でもこれを飲む時は本当に最悪の事態になった時ですから、実は自分の子には渡す勇気がなかなか出なかったんです。
けれどもおととしの11月に浜岡の1号炉の放射能漏れ事故が報じられ、大きな配管が吹き飛んでいるのをテレビで見て、あれだけ老朽化していたなら、小さな地震でも耐えられないだろうなと実感しました。
それでようやく息子たちに手渡したんですが、その時、子供たちの戸惑った顔を見て、私は何でこんなことをしているのか、大人としての責任はヨウ素剤を渡すことよりもっと他にあるはずだと強く思ったのです。
 年が明けて静岡で、浜岡原発を止めたいと願う人たちが30人あまり集まった時、東京の弁護士さんたちから裁判をしようという声が出ているという報告がありました。
原発の是非や安全を問う裁判は難しいけれど、地震が理由なら勝つ見込みがあるかもしれないと聞いて、「裁判だったらやりましょう」と私は1人で声をあげちゃったんです。
裁判は時間もお金もかかるし今まで勝った試しがないという声が多かったんですが、私は相手が同じテーブルについてくれる場があるのなら、まず自分たちの意見をきちんと聞いてもらいたいと心から思ったのです。
 私は小さい時から話し合う過程が好きでした。 違う意見を聞かないと自分が正しいと思ってしまうけれど、もしかしたらお互いの意見を聞きあっているうちに第3の意見が生まれてくるかもしれない、そんな過程が好きで、裁判も勝ち負けではなくて、それをしている間になんかもっと方向性が見えてくるんじゃないかと…今もそう思っています。

ふつうのお母さんたちの思いと専門家がつながった裁判
 昨年2月に「浜岡原発とめよう裁判の会」が発足して、全国に向けて原告の募集を始め、4月25日に原告団1015人で第一次提訴となりました。
その後も原告に加わってくださる方たちは増え続け、今年3月現在で1780人になっています。
 私はこれまで20年近く、生活の場、地域の場で一般の若いお母さんたちとつながりを持ってきたんですが、自分から活動に加わってと呼びかけたことはあまりないんです。
でも、今回この裁判についてあちこちに書かせていただいたものを読んだ方がコピーして地域で配ってくださったり、一人のお母さんが保育園に呼びかけて、その保育園の多くの方が原告になってくださったりしました。
自分が今子供たちにしてあげられるのは何だろうと考えた時に、地震は止められないけれど原発は止められるかもしれないという思いをたくさんの方たちが持ったのです。
 この裁判を一緒にやっている方たちの中には組合活動を長年やってきて素晴らしい行動力を持っている方たちがいるんですが、私はみんなに説明しないと前に進めなくて、私の運営のしかたはすごく面倒くさいとよく言われました。
でも「今まで運動にいなかったような人たちともいっしょにやっていきたいというのが皆さんの希望ですよね。
原発のことをやってきた人たちとだけやりたいですか?」と脅したりしながら(笑)、やっています。
どのくらいのスピードなら、みんなが落ちこぼれないか。
これくらいだったらできるというリズムに合わせて活動するというのが、今回の原告の数につながると思うんです。
効率は悪いけれどそれもいいかなということが、だんだんわかってもらえるようになってきました。
 それから私は事務局長として全体を眺めることはできますが、原発の専門的な知識はほとんどありません。
でも、原告団の中には地震の専門家、原子炉の構造の専門家、または各地の原発裁判のことを良く知っていらっしゃる方など市民ブレーンみたいな方たちがたくさんいて、静岡だけではなく遠い所からもみんなが力を出し合ってくださっています。
 裁判では各界の専門家の証言やデータの解析などを書面にしたうえに、裁判長の要請で証言ビデオを製作することになりました。
膨大な労力とお金がかかったんですけれど、そういうことの積み重ねを日々見ていると、この裁判は30年も前から原発をなくそうと願ってきた方たちの活動の上にしか成り立たなかったのだということを本当にありがたく感じます。
今までこんなに活動があったのになぜ原発が止らなかったのかと言われる方がいるんですけれど、どの活動も何一つ無駄になっていないんです。
みんな次の歴史を作るための力や知恵や情報を出してきて、目に見えないネットワークみたいなものができあがっている。
そういう方たちが素人の私たちの気持ちといっしょに歩いているんだということを多くの人に伝える仕事をするには、やはり私自身が素人でよかったと思っています。

原発がなくても暮らせることを電力会社自らが証明した
 裁判が始まってもうすぐ1年ですが、原発そのものも激動の一年でしたね。
昨年の8月に東電のトラブル隠しが発覚しましたし、浜岡原発も実は検査報告漏れや傷があったとわかって、9月20日に浜岡のすべての原子炉が止りました。
今年の1月には2号炉が再開されましたけれど、その間全然「節電せよ」とは言われませんでしたし、停電になることもなかったんです。
私たちがずっと原発はなくても電気は足りているんだと言ってきたことを中部電力が自ら証明してくれたような結果になりました。
もちろん火力発電ならいいのかという問題ではなくて、ここ十何年私たちは節電の努力をしています。
でも原発がなくても暮らせるんだという実感をみんなで分かち合えたのは本当にうれしいことでした。
 それで、だったらもう原発を動かさないで、そこいら中でソーラーパネルだの風車だの自然エネルギーによる発電ができたらいいねと仲間と話したんです。
たとえば私たちが100円でも1000円でもお金を出し合ったら、小学校にソーラーパネルを寄付することができる。
そうしたら子供たちは太陽が出てきたら電気ができるということを学べるんです。
「市民エネルギーギフト」という名前が先に出てきて、みんなの応援で今年2月に立ち上がりました。
自分が250万円出して「私のところは自然エネルギーです」と言うより、みんなでエネルギーを未来にギフトするほうがずっと楽しいし、夢があります。
言葉を尽くすだけじゃなくて、思いが形になると言うことも必要なんです。

勝ち負けから一歩進んで第3の道を探る
 この裁判は国を相手取っているわけではないので、中部電力は原発を止めるとなれば当然損害が出るでしょう。
私はそれをみんなで…国や県、市町村、市民みんなで負担できないだろうかと、そしてもしも中部電力が原発以外の自然エネルギーで発電するプラントを造ってくれるのであれば、私たちは未来債として市民も企業もそれを買って、一緒に電気を作れるのではないかと一回目の意見陳述の中で言いました。
仲間の女性たちともずっとこのことを話し合ってきたのです。
停めるか停めないかの選択から一歩進んで、第3の方法をみんなで考えたいというのが、この裁判に関わった私の一番の願いなのです。
 裁判は勝たなければダメだと思えば、負けたら裁判は無駄だったということになるかもしれません。
でも、司法がただ人を裁いたり、損害をお金に換算するだけだとしたら、それは自ら司法の理念や可能性を否定してしまうことになります。
司法も人が幸せになるために使われなければ何にもなりません。
子供たちの未来のためにも原発はやめたいというみんなの願いを受け止めて、それをどうしたら実現できるか、そのための方法を話し合って考えていくことで時代を新しい形に変えていく、その道順をこの裁判はつけることができるのではないかと、私は思っています。
月間湧2003’4より




HOME > 馬場利子メッセージ > 暮らしのエッセイ > いのちの視点で暮らすということ
2006'5/25
ぐるーぷ・みるめの総会に寄せて
“いのちの視点で暮らすということ”
1991年に 食べ物に関心を持つ人(7〜8人)が集まってスタートした共同購入ですが、あれから15年。
近日は 行政も『食育』に多くの予算や政策をあげるようになっています。
私がなぜ、『食』に関心を持ち、『食の場』に感謝し喜びを感じているのかといえば、それは『健やかな命(体と心)』の基本になる不可欠なものだからです。

食べ物(環境から否応なく摂取してしまう化学物質や環境の汚染も含めて)が生き物の健康に及ぼす影響はこの20年の間に顕著に理解されるようになってきました。
 少し知識を持てば、その汚染のリスクを減らす事は実に容易です。
しかし、いのちの視点で暮らすことに無関心でいれば今、何が起こっているのかを感じる事は難しくなります。
 私たちの体と心(脳)は環境の物質を取り入れ、代謝し、命を繋いでします。
 水や空気、食べ物・・全ては環境から得る命の糧です。
だからこそ、私たちは私たち1人1人の暮らしが命の鎖を傷つける事のないように、『生ごみ』を土に還したり、小さな紙に至るまで燃やす事のないように、自分たちで動いて小さな行動としています。
・・・こんな小さな活動は無意味でしょうか?
私たちはまた小さな願いを繋いで、集いや署名、呼びかけをしています。・・そんな事は何の役にも立たない事でしょうか?

いのちの視点で暮らす・・とはどんな事を言うのでしょう?
いのちとは、小さい大きいではありません。
小さな願いが無意味だとするなら、もっと言えば力を持たないいのち(植物や重度の障害を持つ人々)は何の意味もない事になります。
命の視点で暮らすということは、全てがその存在のまま、その輝きを生きるということではないでしょうか・・・。

子どもの命を社会の視点で比べる事は、子どもを規格品(物)として扱うのと同じ事です。
「私が何をしても変わらない」・・と自分を社会と比較する事も力(幻)の基準です。
「私」の願いや意見は直ぐに社会を変える事は出来ないかもしれません。でも、『私』は私を表す事が命の視点で暮らすことだと思います。
『私』の願いを表すその1つが、食べ物を選ぶ事でもありますし、家族に病の人があれば寄り添い、支える事も『いのちの視点で暮らす』事に他なりません。

人と自分を比べたり、社会の中で自分は力の無い者だと自分で決めてしまったり・・・もし 大人がそんな風に生きているとすれば、子どもたちは、とても息苦しくなってしまいます。
だって、力があり、誰にも負けない子など何処にも居ないのですから・・・。

「小さな願いを生きれば、感謝して食べられる『食べ物』に出合え、私たちのいのちを活かしてくれる」「地球上の何億分の1の二酸化炭素を減らす事のできるトレペって嬉しいよね」そんな話をしながら仲間や家族と一緒に育つ事の出来る暮らしに心から感謝をしています。
2006年5月25日  馬場利子




HOME > 馬場利子メッセージ > 暮らしのエッセイ > “9条ピースウォーク”
2008'5/7
“9条ピースウォーク”を終えて
平和への想いを繋ぎ、エネルギーを集めて迎え、送った“9条ピースウォーク”
9条ピースウォーク静岡県中部実行委員会  馬場利子
     
 4月17日、雨の中のウォークを共にし、ウォーカーの皆さんを静岡県東部へ送り、1月か
ら準備をしてきた中部実行委員会の主なる目的を果たし終えた安堵感と、一緒に歩いた親愛
の情からウォーカーの無事到着を祈る思いに、名残惜しささえ感じています。

  私がこの9条ピースウォークの受け入れに協力したいと思ったのは、「9条ピースウォーク
実行委員会」の呼びかけ文『憲法9条を輝かそう 9条ピースウォーク いのちの行進 想
いを行動に』を読み、共感と大きな感動を感じたからです。

  企画して下さる人が在り、平和を願って歩いて下さる方たちが居てくださり・・私はその
人たちを迎え、共に分かち合う場を作る事でこの行動に参加できる・・趣旨が明確で、活動
も分かりやすく、目的にも賛同でき、私は最初に説明を聞いた時から、この『9条ピースウ
ォーク』の活動をとても嬉しく、ワクワクとした喜びを感じていました。

  しかし、私自身は平和や9条に関わる活動をしてきたわけではなく、長い間、暮らしと環
境をテーマに活動してきた、ある意味で部外者でしたから、受け入れは、地域の繋がりと同
じ想いの有志が集り、皆で話し合って進める方法を採りました。
  代表が誰であっても、静岡の場合、きっと上手くいくと思っていましたので、呼びかけを
して下さった東京事務局から「組織に呼びかける事はせず、1人1人、個人としての参加で
受け入れをして欲しい」という要望に応えて、グループや組織への呼びかけは全く行いませ
んでした。
 ですから、準備会の呼びかけは、静岡市近郊で市民活動をしている(あらゆる分野の)人々
が読んでいるメール通信(読者約280名)で流し、自発的参加者のみで始めましたが、初
回から40名近い人が集ってくださったことには、正直なところ、驚きました。平和の活動
がいかに大きく、広がりのある活動であるのか、私自身が知る機会となりました。

  1月に行った第1回の準備会から、月1回の実行委員会を開催し、準備をしてきましたが、
このように長い時間を掛けて、ゆっくり準備を進めたのには、理由があります。
それは、限られた人々がウォーカーの受け入れをするには、静岡県は広く、ウォーカーが滞
在する日数も多く、地理的にも東海道は想像以上に長いため、どうしても無理や負担が大き
くなります。そのため、実行委員会に参加してくださった人が中心となって、各地域である
意味、独立した工夫と人との連携を創る必要があるためでした。準備の4ヶ月間は、名乗り
を上げてくださった人々(実行委員会のメンバー1人1人)の心が醸成してくる期間として、
とても大切な時間だったと思います。

  MLを第1回から立ち上げ、意見交換や伝達をしていく中で、初めて知り合った実行委員
会のメンバー1人1人が、地域でどの様にピースウォークを迎えようとしているのか、互い
に理解し、触発されたり、感動したりしながら、全国共通のルールやマナーを守る事意外は、
各地域で全く自由な形を取って進めてきました。

  中部実行委員会という大枠の中では2名(私と久保田さん)が全体コーディネーターであ
っても、実は地域ごとに責任者の方が居て下さり、その方たちが地域の人と心を繋いでいっ
てくださったからこそ、すべての地域で楽しく、活き活きとしたサポートが出来たのだと思
います。それを可能としたものは、この9条ピースウォークが“なぜ、何のために行われる
のか”を、どの実行委員もしっかりと理解し、共感し、自分の活動として動く事ができたか
らだと思います。
  また、ウォーカー自身も同様に、自分のテーマとして“歩く”事を選択した人々でしたか
ら、受け入れる私たちの動きに配慮しながら、気がつくと片付けや台所仕事などを一緒にや
って下さる人や、質問に丁寧に(きっと各地で何度も同じ事を聞かれていたに違いないので
すが)応えて下さる人など、お客様を迎えるという感覚は全く無く過ごす事ができ、このウ
ォークが人と人を結ぶ活動であることを、一層、感ずる事が出来ました。

  ウォーカーを静岡県東部へと送った今、改めて、この活動に連なる事ができた幸せを感じ
ています。実行委員の各々が、近くで市民活動をしていながら、交流する事無く過ごしてい
た多くの人と出会い、互いの特色を生かし合おうと努力をして協働できたことは、このピー
スウォークの活動そのものが、「平和の行動」を創るものであったと感謝しています。

  私たち、中部実行委員会はこれで解散し、またそれぞれの活動や暮らしに戻っていきます
が、平和を願う繋がりは消えないと感じています。
  言葉に尽くせぬ、“ありがとう”をピースウォークに関わって下さった全ての皆さんに贈り
たいと思います。
ありがとうございました。
                
2008年4月18日  馬場利子 記




HOME > 馬場利子メッセージ > 暮らしのエッセイ > 石川薫さんありがとう
2008'10/8

“石川薫さんありがとう”
消費者リポート2008年9月号より転載
わせだより
 1989年から5期10年間もの間、役員選考委員会委員として日消連の運営上の問題にも渾身の力を注いでくださった石川薫さんが、この夏の7月18日に、がんのため亡くなられました。
享年60歳でした。
 三重県鳥羽の海辺で育った石川さんは、海と魚と海産物が大好きで、合成洗剤の使用によって海が汚染され始め、魚師から魚が少なくなったという話を聞いたり、入江の真珠養殖の母貝が死んだり良い卵を産む貝がなくなったりして養殖をやめていくのを知り、 73年頃には鳥羽SOS運動を立ち上げ、合成洗剤ボイコットを呼びかけていました。
 愛知の合成洗剤追放・石けん購入運動は、合洗追放西日本連絡会で石川さんたちのグループと運動をともにしていました。
東京の消費者グループがいち早く合成洗剤有害の情報を掴み伝えて、全国の消費者グループに稲妻が走り、合洗追放の運動が各地域で燃え上がった頃の話です。
 まだ20代の石川さんは、合成洗剤の有害性について三重大学にいた坂下栄さんを訪ね、マウスの背中の毛を剃り洗剤を塗る実験の説明を聞いたりしながら、 鳥羽の人々の間を有害性を訴えて歩き回っていました。
何事にも、自分自身にも妥協を許さない人でしたから、日消連の運動についても辛口の意見を頂いておりました。
 早過ぎるお別れでした。安らかにお眠りください。(水原)

プラム通信2008年10月号より  馬場利子 記
 石川薫さんの他界を知ったのは8月2日(土)の日本消費者連盟の運営委員会(東京)
私はとても驚き、お連れ合いで知人の石川貞二さんにお詫びの手紙をすぐに書き送りました。
薫さんには20年何かにつけ教えを受け、励まされ、勇気をいただくだけでなく、ここ数年「とにかく雑事を離れて鳥羽の海を見に来なさいよ」と何回となく招待を受けていたのです…。
私が“いのちと暮らし”に関心を持ち、食べ物から歩み出した後に、石川貞二さんと坂下栄さんの合成洗剤の毒性実験を知り「科学的な生命のとらえ方」を知るきっかけなったのもかおるさんたちの活動の大きさと広がりのお陰でした。
石川ご夫妻とは親しい友人のつもりでいた私でしたが、薫さんの病気や他界、葬儀を知らなかった理由は 「病気のことはできるだけ誰にも知らせないで」という薫さんの意志で「葬儀もしなかった」との事でした。
49日の9月6日まで、毎日「薫さん、ありがとう」と日記に記しました。




HOME > 馬場利子メッセージ > 暮らしのエッセイ > OPEN10周年記念号
2009'4/28
プラムフィールド通信・第102回巻頭エッセイ
“OPEN10周年記念号”

プラムフィールドは1999年5月7日、上沓谷のお店から6人のメンバーで出発しました。
運営メンバー6人の内、5人は共同購入“ぐるーぷ・みるめ”で一緒に活動を続けてきた人でしたが、 もう1人は、自分でお店を持ち、住まいも駅南・・・と他のメンバーとは少し違う生活時間でありながら、 “健やかな命と暮らしを提案する”活動テーマに賛同して、参加して下さいました。
想いがつながったからだと思います。

プラムフィールドは静岡市で初の市民リサイクルショックであり、環境スペースだったと思います。
まだ、ごみ減量やCO2削減ということもまったく言われていない頃でした。

物を大切に、まだ使えるものを、有効に使ってもらえる人に橋渡しするリユースショップを開きたい・・・と 思ったのは1990年私が静岡に転勤してきたすぐの頃です。
それまで住んでいた浜松市では市民リサイクルショップが運営されていて、私も利用させてもらっていたのですが、 静岡には、そうした活動がなかったからでした。

いつか“安全な食べ物や暮らしの消費財を紹介したり、リユースやエコ活動を提案するスペースを開きたい・・・” 夢を持って以来、9年目にプラムフィールドは生まれました。

私にとって静岡は知人1人居ない未知の街でしたが“いつか地域で〜したい”という願いを 一つ一つ一緒に実現していける仲間に恵まれたことは、神様からの賜物に他ならないと思います。

プラムフィールドは新しいスタッフも増え、“リサイクルショップ”だけではなく、 スタッフ1人1人の個性や夢がその時、その場のスペースを創り、訪れてくださる皆さんと一緒に 10年を織り上げることが出来ました。

スタッフ一同、心から感謝しています。
これからも1人1人の心に実った愛を社会に広げていきたいと思います。

プラムフィールド通信・第102回巻頭エッセイより
馬場利子





“プラムフィールド10周年に寄せて〜余録〜”

私たちの活動スペースの名まえを“リサイクルショップ”や“エコショップ”という名ではなく、 “プラムフィールド”と名づけたのは、 集まって下さる多くの人によって自由に創られていく『場』として在るように願ってのことでした。

人が生まれてきた子どもに命名する時、その子の命への願いを現すのと同じように、 私たちも、この場が私たち自身のためだけの存在ではなく、 関わってくださる人々によって、育てられ、支えられて“何かになっていく”ことを 一緒に楽しませてもらいたい、との想いで名づけました。

“プラムフィールド”とは M・オルコット(1833〜1888年アメリカ) の小説 『若草物語』の第三部で、次女ジョーが夫ベア氏とともに開いた学園(後に大学となる)のあった場所の名前です。
『若草物語』の中で、小説家を夢見たオテンバな少女ジョーは、 長い間、幼い私の憧れの女性像でした。
“プラムフィールド”にジョーが開いた学園では、 ジョーの甥や姪だけでなく、孤児を引き取り、育ち合うのですが、 そこには大人が教育するという風景はなく、 子どもの現れに心を配り、一緒に感じ合おうとする大人たちが語られています。

“将来、あなたは何をしてもいい。あなたが幸せを感じられる人となるよう、私も力を尽くします”という言葉は 小説には出てきませんが、私はいつか、そのような『場』を一緒に作ってくれる人々に巡り会えたら、 きっと“プラムフィールド”を創りたいと思ってきました。

そして仲間が与えられ“プラムフィールド”は実現しました。
“プラムフィールド”はお店ではなく、
心を交わす『場』であり続けたいです。

心から10年に感謝します ハート赤 ハート赤 ハート赤
プラムフィールド通信・第102回より
馬場利子





HOME > 馬場利子メッセージ > 暮らしのエッセイ > OPEN10周年記念号
“10周年のお祝いの花に寄せて”

花

 5月に入って、いつもにも増して多くに方が来店して下さるようになりました。
 プラムフィールドがオープンして10年になったことは、
特に宣伝できる方法もない私たちですが、
 毎月発行している通信を読んでいてくださる方が
 “おめでとうございます”と お声を掛けてくださったり、
   “ここを開いていて下さって、ありがとうございます”と言っていただいたり、
 私たちスタッフにとっては、日常の中の小さな活動でしたが、
 続けてこられた事は、やはり、来店して下さる皆さんのお陰だったと改めて感じています。

そして、遠くの町で “健やかな命を未来へ〜”と願い、
活動をしていて下さる(有)エムディさんからも、
思いがけないお祝いをいただきました。
多くの人に見守られてプラムフィールドが在る事に感謝しながら、
また1歩を歩みたいと思います。
よろしくお願いします。




HOME > 馬場利子メッセージ > 暮らしのエッセイ > お礼
“静岡の地震を案じていただき、
本当にありがとうございました”

今日、8月11日未明に起きました駿河湾沖の地震で、
静岡市葵区の被害状況が報道されましたため、
各地から多くのお見舞い、お問い合わせの電話やメールを頂きました。

ご心配をありがとうございました。

プラムフィールドは8月1日より、例年通りの長い夏休みを頂いていますので、
店内の被害を心配して、行って見ましたが、唯一1本、もろみ酢が破損していただけでした。

プラムフィールド店内には、食品や衣類、書籍などが所狭しと並んでいますので、
特に瓶入りの食品の被害を案じましたが、その他の商品は、夜中に遊ぶために棚から踊りだし、
朝が来てしまって床に寝そべっているような有様でしたが、何だか楽しそうにも見えました。

地震の揺れは、被害の小ささに比べて、驚くように大きかったように感じました。
スタッフの各家でも、本が散乱したり、台所の食器が床に広がったりしてはいましたが、
皆、怪我も無く、元気にしています。

今回は、予想される東海地震とは違っているようですが、
浜岡原発の安全を案じてお問い合わせをくださった方も、複数ありました。

地震発生から約1時間は、浜岡原発について報道される事はありませんでしたので、
6時半頃、県庁の原子力防災課に電話で問い合わせをし、
「今のところ、モニタリングポストで放射能漏れの数値は出ていません」という返事を貰い、
やや安堵をして、日常に戻る事ができました。

遠く、九州や北海道からも静岡の地震を案じていただき、本当にありがたく思いました。

プラムフィールドは8月23日まで夏休みを頂きますが、今回のご声援に感謝して、
また8月24日から、元気に「場」を開いていきますので、よろしくお願いします。

まだまだ、天候不順は続くようです。
皆様もお体大切に、お元気でお過ごし下さい。
ありがとうございました。

2009,8,11  プラムフィールド スタッフ一同   




HOME > 馬場利子メッセージ > 暮らしのエッセイ > 牛肉の支援購入

牛肉の支援購入〜いのちと感謝の祭り〜




HOME > 馬場利子メッセージ > 暮らしのエッセイ > 環境と子どもの健康について

環境と子どもの健康について、
関心を持ってくださっている皆様へ

  2011年1月13日  環境カウンセラー  馬場利子  

昨年中も色々とご支援、お力添え、ありがとうございました。
皆さんにお願いがあって、メールをさせていただいています。

化学物質の多用による、子どもたちの健康上の現れが心配されるようになって久しいですが、
この件に関しては、文部科学省はすでに、子どもの発達について詳細な就学時調査と
化学物質と脳機能への影響について、5大学での研究報告を受け取り、
事態の深刻さを把握して、2007年『支援教育法』を制定し、政策的な対応を取ってきました。

しかし、それは発達に支障をもつ子どもたちを支援する政策に留まっており
化学物質による健康リスクを減らすという根本的な対応を取られることはありませんでしたが、
2004年より環境省内で調整を進めていた、『子どもの健康と環境に関する全国調査』が、
事業仕分けも『重要な調査』という評価を受け、無事、実施が決まり、
2010年7月より、全国15の研究施設で妊婦さんの登録が開始されました。

残念ながら、静岡県内では調査実施機関に選ばれた病院がありませんので、
静岡県の妊産婦さんには登録をしていただく事はできませんが、
この調査は、妊産婦さんに協力を依頼し、了解を得られた妊婦さん(7〜10万人登録予定)の血液検査や生活習慣、夫の健康状態などを把握しながら、
研究対象となる化学物質の測定値を把握し、生まれてきた子どもが12歳になるまで、
長期にわたって子どもの身体的、精神的な発達や、運動能力、学力などの総合的な発達状況を調査し、化学物質と子どもの健康の関連性を研究する大規模調査です。

調査は、大規模で長期の観察が必要になりますので、
国民の高い関心が得られなかった場合、
『環境化学物質と子どもの健康に関する調査』の結果を受け入れたくない企業や研究者などの
恣意的な国への働きかけが行われる事も予想されます。
その場合、「財政的な措置が見送られる可能性も大きい」と研究機関の連絡会でも懸念が表明されています。

このため、
環境省では、多くの人に関心を持ってこの調査を見守ってもらえるように、
昨年12月より、
「子どもの健康と環境に関する全国調査」のサポーターの募集を始めました。

http://www.env.go.jp/chemi/ceh/
皆さんへのお願いが遅くなりましたが、
上記の『エコチル調査』HPにアクセスしていただくと、
サポーター登録が簡単に出来るようになっています。

サポーターに登録していただきますと、
『エコチル調査』の経過や、ニュース、学会の開催案内も届きます。
是非、多くの方に参加いただき、この調査がしっかりと遂行され、
未来の子どもたちが健やかに育つ社会を実現するための『政策提案』がまとめられるように、
応援と関心を寄せていただけますよう、お願いいたします。

『化学物質と子どもの健康』は私の生涯のテーマとして、活動を続けています。

12年後、この調査結果がまとまるまで、皆さんのご支援をよろしくお願いします。

また、皆さんの周りに方で、この『子どもの健康と環境に関する全国調査』に関心を持ってくださる方が いらっしゃいましたら、『エコチル調査・サポーター』登録のご案内をいただければ、幸いです。



<追伸>
エコチル調査の資料、(A),(B)が必要な方は、ご連絡下さい。メール添付にて、お送りします。

(A)『子どもの健康と環境に関する全国調査 (エコチル調査)基本計画 』
平成22年 3月30日
(B)『子どもの健康と環境に関する全国調査(エコチル調査) 仮 説 集』
平成22年 3月30日

また、『脳の機能発達と学習メカニズムの解明』については、以下の研究機関HPにて
http://www.brain-l.crest.jst.go.jp/index.htm
ご覧いただけます。

この情報をお友達にお伝えくださる方は
下記のメール添付やプリントアウト用ワード原稿をご活用下さい。
『子どもの健康と環境に関する全国調査』に関心を持ってくださる方へ